ゲキカン!


漫画家 田島ハルさん

劇場のコンカリーニョのステージ上には、椅子が三脚置かれていた。細い金属の縦格子と背もたれのゆるやかなカーブが美しい。凛とした佇まいに儚げな表情を合わせ持つ女性のような椅子。そんな魅力的な存在感を放つ椅子の他には舞台上には装飾も大道具も何もなく、がらんとした大きな薄暗い空間が広がっていた。舞台が始まると、このステージ上の空白が言葉と想像によってみるみると彩られていく。札幌演劇シーズン2024-冬のトップバッターは弦巻楽団公演の「ピース・ピース」。

母と娘にまつわる三つの物語を描いたオムニバス形式の作品だ。特徴的なのは、三人の役者のうち二人が母と娘を演じ、一人が語り手になり物語を進めていく。つまり、二人芝居+語り手といった形式を三パターン繰り返していく。会話劇の三人芝居とは全く違う試みが新鮮。語り手が淡々と物語を進め、母娘役はほとんど台詞が無いまま体の動きで表現する。二人が神様にあやつられる人形のように動いている受動的な表現が面白い。作品全体が「観る小説」といった感じだ。

また、娘の視点から紡がれるモノローグが印象的で、思わぬところで自分の胸の裡に引っ掛かる言葉の切れ端の数々には、栞をページに挟んでおきたくなる。幼少期までさかのぼる娘の告白に、娘の母の輪郭が少しずつ浮き出てくる。冷たい女、泣く人、魔法使い…、それは聖母だとか理想の母親からはかけ離れた、一人の人間という生身の姿だった。母と娘の関係の歪さ、おかしさ、優しさといった、肉親であり、同じ女性同士だからこそ生まれる複雑な想いに心を揺さぶられた。

大きな空間を生かした影の効果や、場面により表情を変える椅子の演出も巧みで、作品の密度を濃いものにしていた。最低限の物しかないミニマルなステージがどのように変化していくかは、舞台を観たかただけのお楽しみということで。

終演後、あの椅子の事が気になり調べてみたところ、北海道を拠点に活動する金属工芸家・彫刻家の藤沢レオさんがこの作品のために製作した椅子だと知った。こういった素敵な物や人に出会い自分の世界が広がることも心が豊かになることも、観劇の魅力であり、私が劇場に足を運ぶ理由である。これから観劇するかたにも其々に心に芽吹くきらめきの種を見つけられますように。

田島ハル
札幌生まれ札幌在住。漫画家、イラストレーター。2007年に集英社で漫画家デビュー。朝日新聞朝刊道内版で北海道の食の魅力を紹介するイラストとコラム「田島ハルのくいしん簿」、角川俳句で俳画とエッセイ「妄想俳画」など連載中。菓子処梅屋さんの「北海道梅屋名物しゅうくりぃむ」のパッケージイラストを担当。X(旧Twitter)とInstagramで読める漫画「ネコ☆ライダー」を描いています。
X/Instagram
ライター・イラストレーター 悦永弘美さん

3つの美しい椅子が並ぶ静かな舞台に、モノクロの衣装を纏う3人。
弦巻楽団『ピース・ピース』は、語り手が一人、演じ手が二人。
それぞれが入れ替わりながら3つの物語をオムニバス形式で紡いでいく。
娘の視点で淡々と語られる母と娘の物語は、それぞれの内面に迫っていく緊張感があり、激情があり、切なくて、あたたかさがあった。

環境は違っていても、母と娘を行き交う繊細で複雑な感情は普遍的なのだと思う。
会場で手にした弦巻啓太さんの挨拶文にもあったけれど、「母と娘」の関係性は特殊だ。
友人のように寄り添う友達親子もあれば、互いに依存しあったり、嫉妬をしたり、反面教師にしたり。女同士だからこそ、ということもあるかもしれないけれど、根っこにあるのは、DNAレベルを超えた深いつながりのある、自分ではない別の人間の存在との関係性。
母と娘だけではなく、母と息子、父と娘、父と息子。あらゆる親子の間に流れた感情の断片が、3つの物語の中にきっとある。

語り手は、娘の視点ではあるものの、一歩引いた第三者視点に近い。
セリフを最小限に絞った演じ手二人に、幾度も「娘である自分」や「母である自分」を投影してしまう。
読み応えのある小説のようでありながら、確かな演劇。
これまで以上に、自分自身の内部と対話する、体験したことのない不思議で圧倒的な没入感があった。

だからだろうか。
観劇後の確かな感動を胸に、原稿を書こうとパソコンに向かったものの、いかに物語に飲み込まれ、夢中になり、胸の奥が締め付けられたかを言語化しようとすると手が止まってしまう。
それは、自分の心の中にある、誰にも知られたくない、母としての感情、娘としての感情がむき出しになってしまうことへの恐れと羞恥なのかもしれない。

決してとっつきにくい物語ではない。
何度も読みたくなる、観たくなる、魅力的な舞台だ。
観客の心の中の物語を補完しながら、一人ひとりのピース・ピースが誕生すると思う。

観劇後、散らかしたおもちゃの中で寝転がりながらくつろぐ息子に対し、これまで以上に寛大であろうと、違う角度で注意を試みる私自身の浅はかさをここに残しておきます。

悦永弘美(えつながひろみ)
1981年、小樽市出身。東京の音楽雑誌の編集者を経て、現在はフリーのライター兼イラストレーターとして細々活動中。観劇とは全く無縁の日々を送っていたものの、数年前に演劇シーズンを取材したことをきっかけに、札幌の演劇を少しずつ観るようになる。が、まだまだ観劇レベルはど素人。2015年、仲間たちとともに短編映画を制作(脚本を担当)。故郷小樽のショートフィルムコンテストに出品し、最優秀賞を受賞したことが小さな自慢。
作家 島崎町さん


あれ? もう終わったの?

気がつくと劇は終わり、カーテンコールを迎えていた。もともと70分だから短めだったとはいえ、あまりにもはやい。僕はしばし、ぼう然とする。

よい劇ほど時を忘れる。自分がどこにいて、なにをしていたのかがわからなくなる。物語に飲みこまれ、自分という存在が消えていく。どんどんどんどん、消えていく。いつの間にか、僕は劇と一体となっている。

弦巻楽団『ピース・ピース』は変わったお芝居だ。3話のオムニバスで、3人の役者が「語り手」「母」「娘」の3役を演じ、1話ずつ役を交代していき、全員が全役を担って終幕する(出演は赤川楓、佐久間優香、佐藤寧珠)。

異様にカッチリした形式だ。しかも舞台は簡素。イスが3つと「語り手」が語る本、それぞれが履く靴、それくらい。

「語り手」が語るのは自分と母親の物語。「語り手」が語りはじめると、「母役」と「娘役」によってその場面が演じられる。語りは止まることなくつづき、演技もつづいていく。ふたつが平行して舞台上で行われる。

ベケットみたいなのか! むずかしい前衛劇か? と思われるかもしれないが大丈夫。語られる物語、演じられるシーンはとても面白い。

だけど明確なストーリーがあるにもかかわらず、この3作がいったいなにを描き出そうとしているのかと問われると、一瞬戸惑う。えーとそれは母と娘の物語で……と。ここがこの劇のユニークなところだ。

こんなにもカッチリとした形式を持ち、語り手が自分の物語を語るという揺るぎなさもあるのに、一言では言いづらい。それは僕たちの心の中に“なにか”なはずなのに。

だからこの劇を観終わったあと、あなたはだれかと話したくなるはずだ。いったい自分の心の中にあるものはなんなのか、ほかの人はどう思ったのか。あるいは逆に、ひとり静かに考えたくなる。じっと、濃いコーヒーでも飲んで、深々といま観たものを反芻したくなる。

本作ははじめに小説の形式で書き、それを戯曲化したものだという。面白いもので、おなじ作者なのに媒体が違うと作風が変わることがある。『ピース・ピース』もそれに近い。僕がこれまで観た弦巻楽団の作品とはけっこう違っていた。

おそらくはじめから戯曲として書いていれば、もっとストーリーが動いたり、もっと明確な言葉で説明できるものになっていたのかもしれない。しかし小説からスタートしたことで、これまでとは違う表現、違う語り、違う出口から新たなるものが生まれたのだ。

物語をぎゅーっと絞ったときに出口からなにが出てくるか。演劇と小説で違ったのだ。そうして小説として出てきたものを演劇として再構築したことによって、小説的であり演劇的であるような、未知なる舞台が生まれた。

この物語は、母というもっとも近いところにいる他者と、そんな母との関係から浮かびあがってくる自分という存在を描き出す。時を忘れて物語に飲みこまれ、気がつくともう終わっている不思議な舞台。

観終わって僕は、いますぐつづけてもう1回観られるよ、という思いだった。2周つづけて観ても飽きない、いやもっと楽しめそうな気すらした。

まるで、何度読んでも飽きないお気に入りの短編集に出会ったような、そんな体験だった。

島崎町(しまざきまち)
作家・シナリオライター。近著『ぐるりと』(ロクリン社)は本を回しながら読むミステリーファンタジー。現在YouTubeで変わった本やマンガ、絵本など紹介しています! https://www.youtube.com/channel/UCQUnB2d0O-lGA82QzFylIZg
俳人、文芸評論家 五十嵐秀彦さん

「ピース・ピース」って漠然と「平和・平和」のように思っていて、パンフレットを見てようやく「PEACE PIECE」であることに気づく。つまり「平和のピース」ということか。しっかりしろよオレ、とか思いつつ、見終わってむしろ ”The pieces of PEACE” ではないかとも思ったが、そんなことはどうでもいい。
ざっくり3つのオムニバスで出来ている。
どれも「主人公」と母との物語。
3つの話の内容は互いには関係がない。

第1話は、ピアニストの夢破れた母と、その娘。
第2話は、極端に弱く泣き虫の母と、その娘。
第3話は、魔法使いの母と、その娘。
それぞれの物語はどれも観客の心に深く刺さってくるものだった。
ここでその内容を書きたい気持ちにはなるが、しかし書かない。今回は特に書かないほうがよさそうだから。
母と娘という関係。親子であり同時にふたりの女であるところから生まれる軋轢や相似、ある種のカタルシス的な心理などが、ひとつひとつ短い時間の中でとても印象的に描かれている。
もともと演劇に関しては素人の私は、舞台上で演じられる物語と脚本とを分けて観ることを意識することは少ない。舞台での演技が全てで、そこで演じられるものだけを楽しんでいるのだけれど、この「ピース・ピース」はどうやらそれでは不十分なようだった。
舞台には3脚の椅子と、3人の女優。
三角形のそれぞれの頂点に3人が等間隔に立つのが基本で、物語の展開に応じてその間隔が近くなったり離れたりする。
最初から最後までこの構図は変わらない。
さて、この作品が一筋縄ではいかないのは、物語そのものが舞台上で演じられていないというところだ。
物語の朗読者がひとり、その朗読に合せてあたかも過去の情景を再現させてゆくような、母役と娘役の2人の女性。
その「配役」は三つの話それぞれで入れ替わってゆく。3人の女優が、一度は朗読者となり、母となり、娘となる。
朗読者は感情の起伏を見せず、ひたすら「本を読む」。母と娘は、それに操られるように、意識的にややぎこちなくその役割を演じる。
実験的である。あまり見たことのない構成だ。
なにより奇妙だったのは、
この舞台に主役がいないということだった。

誰ひとりリアルに見える演技をしようとしない。朗読者が「私」と言っても、それはあくまで本に書かれている「私」を読んでいるにすぎない。「私」とされる「娘」を演じている役者は、「娘」を演じているというより朗読されている「本」の文章をなぞる動作に終始する。「母」も同じだ。

そうすると観客は通常の観劇とは異なる姿勢で舞台を見つめることになる。
朗読されている「本」(脚本?)が舞台で本来演じられるべき空間を自分の頭の中で作っていかねばならない。実際に舞台で動く3人の役者とは別に!

それはまるで物語のピースが舞台の上に散らばっているかのようだ。組みたてるのは観客であり、舞台は眼の前の舞台ではなく個々の観客の頭の中の「舞台」だ。
この試みは、たとえばヌーヴォー・ロマン的な不条理劇にすることもできる形だが、演出家はそうはしていない。
三つの物語のどれもが、母と娘という現実の関係から生み出されてくる人間的な哀しみを描き出していて、その物語性をけっして破綻させようとはしていない。短編小説風にしっかり描かれているのだ。観客はそこに、自分の体験の中にある記憶の欠片を見つける。そして体験としての記憶が呼び起こされ、没入してゆく。
母と娘という関係性。どうしても捨てることのできない宿命がそこにあること。破綻があり、しかし破綻でさえ受け入れる人間性があること。

私は客席にすすり泣きの声を聴いた。
実際の舞台では、朗読と簡素化されたパントマイムのような動きがあるだけなのに、観客は泣いている。それぞれの心の舞台の中で、泣いている。
なんと不思議な演出だろう。
これは観客個々の頭の中に劇場を創り出す装置としての演劇なのだ。
そして最後には、母と娘の互いに独立しえない関係の物語が、完結することのないままにある種の調和を創り出す。心の平和の形が浮かび上がる。物語というピース、朗読というピース、沈黙の演技というピースが、集まって本当の物語が観客の頭の中にだけできあがるのであった。
あなたはあなただけのジグソーパズルを頭の中で作り上げる。どんな絵が浮かび上がるのか。
コンカリーニョに行った人だけが、それを体験できる。

五十嵐秀彦(いがらし ひでひこ)
1956年生れ。札幌市在住。俳人、文芸評論家。
俳句集団【itak】代表。現代俳句協会理事。
北海道文学館理事。
北海道新聞「新・北のうた暦」(共同執筆)、「道内文学時評」執筆。
朝日新聞道内版「俳壇」選者。
月刊「俳句」(角川書店)「令和俳壇」選者。
著書 句集『無量』(書肆アルス)
1995年 黒田杏子、深谷雄大に師事。
2003年 第23回現代俳句評論賞受賞。
2013年 北海道文化奨励賞受賞。
2020年 藍生大賞受賞。
pagetop