ゲキカン!


漫画家 田島ハルさん

以前、どこかの劇場でもらったチラシの束の中になんとなく気になるチラシが入っており、「あ、面白そう。観たいな」と思ったのが今作の初演のチラシだった。生憎その際には都合が合わず観れなかったのだが、この度の再演となり、念願が叶って私にとって初introである。

「ハワイの地平線、テキサスの水平線」というタイトル。広大なイメージとはうってかわって、物語の舞台は日本のどこかにいる一つの家族の物語になっている。
109歳という大往生で亡くなったスエ子。スエ子の娘は一年前に亡くなり、娘の夫は夢の世界一周の船旅に出ている。故・スエ子の家に集まったのは、スエ子の孫・里子(のしろゆうこさん)と里子の夫・正志(小林テルヲさん)、娘・凛純夢(中野葉月さん)の三人。そして葬儀屋・根本(井上嵩之さん)と葬儀の段取りの話し合いに入るのだが、戸惑う里子と呑気な正志の会話は脱線に次ぐ脱線でどうにもこうにも具体的な話が進まない。勝手を知らない家の台所では茶筒とやかんの置き場がわからずに、お茶を飲むことすらままならない。そんなぐだぐたな空気をかき回すように、ハイテンションでやってくる親族の百合子(佐藤剛さん)や町内会副会長の山之内(宮沢りえ蔵さん)までも集結し、皆それぞれが葬儀の喪主を名乗り出てしまい、喪主争奪バトルが勃発してしまう。
表向きは故・スエ子への愛ゆえの闘いだが、胸のうちでは自己中心的で、人をこき下ろしたり、思惑が交錯したり、いかにも人間くさいやりとりを見せつけれるのでにやにやしてしまう。
ラスボス感ただよう里子の姉の悦子(ダブルキャストでこの日は千田訓子さん)も現れて、一瞬で立場が覆されるところも面白い。
私が故・スエ子だとしたら、私のために喧嘩はやめて!と涙ながらに訴えたいところだが。

舞台セットは空色の壁と溶けたチーズのような色の床の、二色の作りになっている。その抽象的な部屋の中でポップな音楽にのせて始まるオープニングのヘンテコなダンスが実にヘンテコで良い。まるでヒゲダンスのような脱力感だ。ダンスも部屋も、人の死とは遠くはなれて、全てが明るくとぼけている。地に足がついてないような感覚はまるで登場人物達の現実逃避だ。

親族ではないものの葬儀を仕切りたがる町内会副会長の山之内や、おばちゃん風情たっぷりのチャーミングな百合子などクセが強すぎるキャラクターも良い味わいだ。いるよね、親戚の中に一人はいるおもしろおばちゃんやおじちゃん。
山之内と正志が二人で並んでいるのが個人的に笑いのツボにはまってしまった。哀愁のメガ特盛りツーショットである。

今作はフィクションだが、現実でも親族が集まるとややこしくなるのはよくあることで、血が繋がっているからといってお互いの全てを理解するのはありえないことだと思う。他人同士でありながら、「家族」という船に乗り合わせた者達が目的地に向かって進み、時にバラバラに離れてまた合流して進んでいく果てしない冒険の旅。家族という不思議さとおかしさを今作は色彩豊かに描いている。
観客はそれぞれに今はもう会えない人の顔がふっと浮かぶだろう。会場がシアターZOOだったということもあり、先日亡くなられた役者の斎藤歩さんが劇場の後ろで舞台を観ているような気がした。札幌の演劇をこれからも見守っていてくれるはずだ。

因みに今作のチラシには家系図がデザインされており、観劇後に見てみると、あっ!と気がつく洒落た仕掛けがされていた。作者は意図してないのかもしれないが、未来への前向きなメッセージが込められているのだと私は勝手に思い込んでいる。

田島ハル
札幌生まれ札幌在住の漫画家・イラストレーター。小樽ふれあい観光大使。飛鳥未来きぼう高等学校 札幌駅前キャンパス イラストコース講師。2007年に集英社で漫画家デビュー。角川「俳句」で俳画とエッセイ「妄想俳画」を連載中。
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俳人、文芸評論家 五十嵐秀彦さん

今年の札幌演劇シーズン、最後の小劇場はシアターZOOだ。
だからどうしたというわけではないが、どこか落ち着くのは不思議だ。

出演者全員が踊りながら登場するというおちゃめなオープニング。
ひたすら愉しい雰囲気なのに、そこは109歳で亡くなったおばあちゃんの葬儀をどうするかという家族会議の部屋だ。

孫娘の髙橋里子(のしろゆうこ)とその夫正志(小林テルヲ)と曾孫娘の凛純夢(中野葉月)、
葬儀屋の根本奏太(井上嵩之)。
なにやら要領の得ない雰囲気だ。
会話からその家が里子の親の家と分かる。そこに本来は父がいるはずなのだが、現在世界一周の船旅中。父からは葬儀万端子供たちで頼むとの言伝を受けている様子。
葬儀屋の根本は当然のように葬儀プランを決めてもらおうとするのだが、ラチが明かない。

まずお茶を飲もう、お茶はどこにあるのか、水を何日も使っていないからすこし蛇口を開け続けて流したほうがいいだの、プランの打ち合わせになかなか入ろうとしない。
根本はぜひ「松」のプランでやってほしい様子。里子が決められずにグズグズしている。
そこに里子の従姉妹の長谷川百合子(佐藤剛)がやってきて、話をかき回しだす。(佐藤剛の怪演ぶり!)
次に、町内会の副会長の山之内直清(宮沢りえ蔵)が弔問に訪れる。おばあちゃんのスエ子さんにパッチワークを教わって大変世話になったとのこと。
さらに里子の姉の島田悦子(田中佐保子)がやってくる。悦子は里子とは違って、落ち着いて仕切ろうとし、かえって里子とぶつかる。
旅行中の里子たちの父を除けば遺族がみんな揃い、町内会役員までいるわけだから葬儀の準備もはかどりそうなものなのに、ここではひとり増えるたびに話がこんがらかってゆくのである。
なんと、あり得ないことに集まった遺族と町内会副会長までが全員、それぞれ喪主をやると言い張ることになって大混乱となる。
この劇はひたすら全員(葬儀屋除き)が、私が喪主だと言い張り揉め続ける物語なのだ。

そのラチのあかなさにあきれるばかりなのだが、舞台を観ながらぼくは過去の葬儀のあれこれを思い出していた。
ぼくは既に両親を送っている。喪主をつとめた。葬儀をどうするか、何が面倒な点なのかなどは、経験している。
けれど2回の葬儀はどれもどこか悔いが残った。
それは段取りのことだとか、家族葬のことだとか、戒名のことだとか、さまざまあるようにも思えるのだが、それだけではないもやもやした悔いが今も残っている。
この劇を見ながら、しだいにぼく自身の個人的な悔いの理由を考えてしまっていた。

この家に来るひとは、109歳で往生したスエ子さんの顔を見ると言って、遺体が寝かされている(と思われる)隣の部屋にそれぞれ入っていく。その時、数秒照明が変化し、居間がすこし暗くなり隣室からの光が仄と漏れる。
生者の居間と、死者の部屋とを分ける見えない境目がそこに表現されているようだ。
死者はどこにいるのだろう。
生者たちは喪主争いという無意味な意地の張り合いを続けるばかりだ。

死者はどこにいるのだろう?

この作品の言いたいことがしだいに見えてくるようだった。
およそ葬儀の打ち合わせとは思えない躁状態の人物ばかりが大声で主張を繰り返す。
一番煮え切らない里子の存在が浮かび上がる。

この里子は葬儀を出したときのぼくだ。
何かが違う、と思っているのだ。実際何かが違うのだ。
それを言い出すことはできない。
ひとが死んだとき、遺されたものたちに襲い掛かる、あの不条理感が里子に濃く現れている。
受け入れられないものがある。それをどうやって受け入れればいいのだろうか。

生と死という区切りの曖昧な時間帯が舞台の上にわだかまっていた。

ギャグ連発の舞台なのに、ここには滑稽の向こうにある死という概念の割り切れなさが描かれていた。
終盤に向かっていくほどに、ぼくは哀しくなった。

死者はどこにいるのだろう?

今年の札幌演劇シーズンの「大トリ」はおそらく並行して「かでるホール」で演じられている「honor」だろうけれど、ぼくはこのシリーズの「トリ」をここシアターZOOの狭い席で見つめていた。

大笑いしながら、しみじみと哀しくなる。
これは小劇場でなければ出来ない、そんな芝居です。

五十嵐秀彦(いがらし ひでひこ)
1956年生れ。札幌市在住。俳人、文芸評論家。
俳句集団【itak】代表。現代俳句協会理事。
北海道文学館理事。
北海道新聞「新・北のうた暦」(共同執筆)、「道内文学時評」執筆。
朝日新聞道内版「俳壇」選者。
月刊「俳句」(角川書店)「令和俳壇」選者。
著書 句集『無量』(書肆アルス)
1995年 黒田杏子、深谷雄大に師事。
2003年 第23回現代俳句評論賞受賞。
2013年 北海道文化奨励賞受賞。
2020年 藍生大賞受賞。
作家 島崎町さん


止まってしまった時間だ。彼女はほとんどその場を動かない。

intro『ハワイの地平線、テキサスの水平線』。祖母が亡くなり、里子(のしろゆうこ/intro)は夫(小林テルヲ)と娘(中野葉月/清水企画)と祖母宅にいる。葬儀屋の根元(井上嵩之/→GyozaNoKai→)は葬儀プランを決めさせようとするが、そのたびに話は脱線、なかなか決まらない。

里子は中央にあるイスに座ったままだ。夫も娘も、ぞくぞくやって来る親族や近所の人も、祖母の顔を見に隣室へ行くが里子は座ったまま。

人の死に際して、うまく立ち回れない自分がいる。そんなに簡単に“死なせてしまって”いいのか。葬儀のプランを決めていいのか。

ドラマ『北の国から』で、小学生の純君が、葬儀を差配する人物に対してモノローグで不信感を訴えるシーンがある。人が死んだのにテキパキ馴れすぎている人がいるのはさびしいと。年を重ね「分別」なるものを身につけた大人への厳しい眼差しだ。

いっぽう里子はもういい大人で、こどももいる。彼女は葬儀をやらなければいけないと思っている。なるべくテキパキ決めた方がいいこともわかっている。だけど体が動かない。彼女は殻のなかにいる。

葬儀プランはまだまだ決まらない。松竹梅、3つのプランがあると葬儀屋が説明する。だけど里子にとってそれは祖母の死を確定させる作業なのだ。

祖母が亡くなったことはわかっている。だけどその死を受け入れられない。そもそも人の死を「受け入れる」とはどういうことなんだろう。

本来の葬儀の意味は忘れられていき、いつしか儀式として残ってしまった。人の死を受け入れるにはそれぞれ差があって、人より長く時間がかかってもいいはずだ。しかし集められ、悼む時間があり、終了とともに人々は日常に帰されていく。

もちろんその意味は大いにある。葬儀にたずさわる人たちへの敬意や感謝は僕も持っている。しかしこの合理的ともいえるシステムに、こどもの目線から懐疑的なモノローグを語った純君と、殻のなかにあって本心を言えない(自分でも気づいていない)里子の姿は、とても心に残る。

本作は1時間20分。この時間こそが彼女にとっての葬儀だったのかもしれない。殻のなかにある、自分のいちばんやわらかい部分、ふれたとたん痛みが走る繊細なその部分を外に出すための。

本作は1幕1場、途切れることなく進み場所も変わらない。うねうねと描かれつづけ時間の感覚がなくなり、長いのか短いのかもわからなくなる。そうして里子も観客も長い時間をかけて殻が壊れ、中身がどろりと出てくる。

内面と外面の境が溶ける。自分と周囲が混ざり合い、世界と同調してひとつになる感覚。ようやく自分の心の居場所がみつかる。ていねいだ。ああintroを観てるなーと実感した。

中央に位置し、静の演技で複雑な内面を表現した里子役ののしろゆうこはじめ、役者は全員よかったのだが(これもintroらしさ)、特筆すべきは娘役(名前はあえて伏せる)の中野葉月の啖呵「オイオイオイ!」と、町内の人、山之内を演じた宮沢りえ蔵(大悪党スペシャル)の怪演! 里子の姉、悦子を演じた千田訓子(万博設計/田中佐保子とのWキャスト)は大阪で活動する役者で、登場すると空気が変わった。

最後に。本公演はチラシがいい。ゲキカン!であまり触れないところではあるけど、最近ではいちばん目を引いた。タイトルにあるハワイとテキサスを2色の色分けで表現し、境目は地平線でもあり水平線でもある。また、一族(あるいは二族)の長大な家系図をうまくデザインして、本作の登場人物もちゃんといる(このゲキカン!書きながら、あ、百合子さんはそういう位置の人ね、と参考になった)。

長丁場の演劇シーズン。このチラシが多くの人の目に留まり、たくさんの人に本公演が観てもらえることを願う。

島崎町(しまざきまち)
作家・シナリオライター。2025年3月『ぐるりと新装版』をロクリン社より刊行。上の段と下の段に分かれ回しながら読む変な本として話題に。YouTubeで「変な本大賞決定会議」を配信中。 https://www.youtube.com/channel/UCQUnB2d0O-lGA82QzFylIZg
プランナー・デザイナー・エッセイスト 橋本亜矢さん

ワールドワイドな風景を想起させるタイトルとは裏腹に、舞台はハワイでもなければテキサスでもない、日本の「お茶の間」で展開されてゆくコメディだ。

109 歳のスエ子が大往生を遂げ、家族や近隣の人々、登場人物全員が「喪主をやりたい!」と名乗り出る。本来喪主になるべき息子がこのタイミングで「船による世界一周旅行」で不在という設定が、この奇妙でユーモラスなドラマの仕掛けなのだ。スエ子をめぐる人々の行動は時に自己中心的で滑稽だが、単なる役割の奪い合いではなく「自分がスエ子にとってどれだけ大切だったか」を確かめたいという愛の印なのだろう。

演劇を観るのは追体験だ。目の前の役者が演じることで、私をここではないどこかへ連れていってくれるショートトリップとなる。荒唐無稽なファンタジーで非日常を味わうのも楽しいが、日常の些細な出来事や家族間の衝突から生まれる心模様や悲哀に心を寄せるてしまうのは、わたしが家族を失う年代になったからかもしれない。しかし、「死」は必ずしもネガティブではない、誰もがいつかは死ぬのだ。死という喪失を通じて残された者が見えてくるもの、新たに生まれるものがある。そのコントラストに内包されたユーモアは、滑稽さだけでなく切なさを呼び起こす。そう、昭和のホームドラマが持っていた「皆で笑い、皆で泣く」ペーソスがそこにあるのだ。現代の個人主義やSNSの乱用、コスパやタイパを意識するような社会では、皆が集い語り合う『お茶の間の光景』そのものがファンタジーなのだろう。

「コメディ」の語源は古代ギリシャ語にあり、元々は「悲劇(トラジディ)」と対照をなす作品を指し、必ずしも「笑い」を意味するものではなかったようだ。フランスでは舞台俳優をコメディアンと呼ぶ。英語由来の「アクター」という言葉もあるが、より芸術性の高い意味合いを持つのは前者だ。つまり、コメディこそ舞台の真髄であり、本質なのだろう。作者のイトウワカナさんはこの作品を「喪主コメディ」と称しているが、意図せずとも「コメディ」という言葉の本質を捉え、ユーモアの中にペーソスを感じさせる人間味あふれる作品を見せてくれた。

「ハワイの地平線 テキサスの水平線」というパラレルワールドのようなこのタイトルの由来は本編を見ればわかり、本編では見られないその光景は素敵なチラシが補完してくれている。このタイトルにも何か現代の家族を象徴させる秘密をイトウさんは潜ませたのではないかとわたしは疑っている、たとえば地平線も水平線もそこにいる時には見えない。その場を離れた時にこそ、その壮大な姿が見えてくる、、、、、いやそんな推察は不粋というものか。

この舞台は少しずつ登場人物が増えてゆく進行なのだが、最後に現れる島田悦子役の千田訓子さんが素晴らしく、彼女の登場によって家族の形が完成したのを強く感じた。その様子は札幌のクラシック音楽イベント「PMF」で、アカデミー生のオーケストラにウィーンフィルのマエストロがひとり加わることで、会場に響き渡る音色が鮮やかな輪郭を持った瞬間にも似ている。この役はダブルキャストなので、もう一度この家族に会いに行こうと思う。

追記
本公演には連日アフタートークが設定されているとのことで、そちらも併せて楽しめます。わたしが観劇した日は北八劇場の芸術監督である納谷真大さん。「自分は絶対に喪主をやりたくないから共感できない(笑)」というコメントにニヤリとしながら、かつて納谷さん自身が経験した” 家族の死” をテーマにした作品「オトン、死ス!」で見せてくれたファンタジーなラストシーンで号泣した事を思い出した夜でした。家族ってそもそもファンタジーなのかも。

橋本亜矢(はしもとあや)
旭川市出身、札幌市在住。株式会社スウィッチ /プランナー・デザイナー・エッセイスト。座右の銘は「猫の生活が第一」。総務省事業にて北海道6自治体プロモーションでフランス・パリにて食(出汁・旨み)のワークショップを企画・運営。(’19、’20)、全北海道広告協会にてオンラインフィルム部門にて優秀賞・製作者賞受賞(’21)。北海道からフランスまでフィールドを広げ、「アヤコフスキー」という別名を持つ。時にはDJ、時には「サロン・ド・アヤコフスキー」というイベントでスナックのママになることもある。現在リトルプレス【北海道と京都とその界隈】にて「アヤコフスキー暮らしの黒手帖」、自治体職員向け情報雑誌【プラクティス】にて「アヤコフスキー揺蕩えどもも沈まず」を連載中。
Instagram:@ayakovsky
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